<教育編>
私は極度に、落ち着きがない生徒として育ってきました。今では病名がつきそうです。
学校の先生もあきらめで一人外でブランコに乗っている事もよくありました。
学習障害児と言う事で、1学級5人の特別学級というクラスに幸い入れていただき良い先生にも巡り会ってきたのですが、授業をまともに受けれませんでした。おもしろいと思えなかったのです。
ただ、体育と理科だけおもしろいと思えました。特に変化が目で見える理科の実験はおもしろいと思いました。
また、自宅ではひたすら蝉を追いかけ、幼虫が土から出てきて飛び立つまで何時間もじっと観察し続けました。蝶の羽化もよく見ました。車にひかれた鳶を拾ってきて手術(羽を切除し癒合)し、かごで飼いました。毎日蛙を捕まえました。
飼っていた犬と一緒にキジのひよこを追いかけ山の中をかけずり回りました。彼らの生活が見えてきました。キノコや山栗を求めてよく山の中を歩きました。
リス・ウズラ・キジ・クジャク・インコ・イヌ・ウサギ・カモ・チャボまるで家は動物園のようでした。
そんな私に、両親は「好きなことをやれ、何か1つ得意な事があれば生きていける」と言い続けました。
生き物がそんなに好きなら詳しい人がいると、芦田先生という、40代前半の先生を家庭教師に向かい入れてくれました。
当時の私は、芦田先生が農学博士だとは知りませんでしたが、なんだか生物の事が詳しいおじさんが勉強を教えてくれると言う事で良くなついて指導を真剣に聞きました。
学校の授業など興味がありませんでした。芦田先生はまずかたづけることを教てくれました。次に整理する事を教えてくれました。
芦田先生は研究者であるのと同時に良い教育者でもありました。
私に消して無理をさせませんでした。私が九九を完全に覚えたのは中学校に入ってからです。
芦田先生については今でも忘れられないエピソードがあります。私がけして開けられなかった世界への扉を開いてくれたのです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高校1年の時、先生の家で先生がオーストラリア人と無線で会話するのを毎日聞きに行きました。先生の影響で私は無線にも興味を持ち、講習ではなく試験で免許を取り無線機の一部を自分で組み立てました。気がつけば、電気抵抗や周波数と言った複雑な計算ができるようになっていました。
そんなある日、先生は、いきなり私をオーストラリアに連れて行きました。これは、私の人生を変えた大きな出来事となりました。最初の2日間シドニーで一緒に過ごした後突然別れることになりました。メルボルンとゴールドコーストの周遊チケットとホテルのチケットだけを手渡されました。初めて行った外国で私は唖然としました。多少無線から漏れてくる会話は聞いていましたが、もちろん英語はほとんど話せませでした。
必死になって、生活に最低限必要な言葉を書いたカルタを作りカタカナをふりました。
そして、相手に読んできかせました。
発音が悪くて全く通じない。空港で冷や汗、ホテルで冷や汗、食堂で冷や汗。必死になれば何とかなってしまう物なんです。でも治安の良いオーストラリアで本当に良かった。後で聞いた話ですが、先生は、実は友人の協力を得て私をマークしたり、ホテルに問い合わせをしたりして私の行動を把握していたらしいです。
その後、動物が多く壮大な自然が残るカナダへの夢がふくらみ英語を懸命に勉強しました。
気がつけば、学校の授業もある程度解るようになり生物、化学、数学、英語を得意分野と
し学年で5教科総合3位、成績優秀者として高校の廊下に張り出されるほどになっていました。このころ、学力が足りなければその分体力で補うしかない。そう考えた私は体を鍛え始めていました。往復50kmを自転車で通学しました。積雪の中、膝まで雪に埋もれながら朝4時に自転車を押して学校まで行く事もありました。体重は3ヶ月で10kg減りました。
能力がない者は体力と精神力で補うしかない・・・常に自分に言い聞かせました。・・
自転車のタイヤはすり減り3ヶ月ごとに交換しなければなりませんでした。芦田先生は生徒が増え多忙となったため、今度は同じく農業を研究されいた竹内先生が私の指導に当たりました。
将来農業か植物の事を学びたいと話す私の話を真剣に聞いてくれました。竹内先生は東京農業大学出身、ボデイービルデイング部OBだったのです。
竹内先生が私にした教育は学校の授業とは全く異なる物でした。 小学校の教材から始めました。 最初、高校生に小学校の勉強をさせる事に驚きました。
先生の教育方針は「スピードと集中力」3,000語を含む英語の単語帳を歌のように全て暗記してしまうまで猛スピードで途中で休むことなく何度も読ませました。覚えようとするな、体がかってに覚えるのを待て。本は読み出したら最後まで休まず1冊読み終えろ。
1日で小学校6年間の数学の教科書を全て読みました。次の日は社会、次は国語、そしてまた数学、・・少しずつ内容が変わっていき、終盤は高校の数学1・数学2・確立統計の教科書を1日で全て読みました。読んでいるうちに少しずつ理解できるようになっていま
した。
竹内先生は丁度その頃、岡山大学で農学博士を論文博士として請求している途中でした。
ほとんど寝ずに仕事と研究、論文作成を続けていました。仕事は家庭教師とスパーの総菜配達。
先生のエネルギーあふれる生き方に心引かれました。私も竹内先生のようになりたいと真剣に思いました。
そんなある日「こうちゃんはカツオ1匹料理をしろと言われたらどうする」と問いかけられました。料理できません。教わったことがありません。と答えました。
どんな事があっても大学に行きなさい。大学は初めて接する課題の解決方法を学ぶ所です。大学で学んだ者だったら、本を買ってきて骨の位置を確認する。包丁の入れ方を調べてそして料理の仕方も調べて自分でだれからも教わらなくても料理できる。
このやりとりは今でもよく覚えています。
私は大学とは本当にそういう所だと信じていました。そして大学で勉強して、さらに農学博士を取得したいと考えるようになりました。
竹内先生と同じ大学に入り大学院に進んだ後、実用化の方により興味を持ち現在に至っています。
生涯研究者であり続ける。この思いは今でも変わりません。そして生涯のテーマとしてデロスペルマの遺伝メカニズムの解析を進め。農学博士を取得したいと思い続けています。
芦田先生によって高校1年生の時に開けられた世界への関心は、私が32歳の時、全くスペイン語がしゃべれない状態エクアドルに単独で植物調査のために入国した時に大きな影響を与えました。
エクアドルではスペイン語のカルタを作りました。カタカナを振りました。やはり発音が悪くて全く通じない、数字が全く読めない。16歳のオーストラリアを思い出しました。必ず何とかなるこの自身はいったいどこから来ているのだろうか、不思議に思えるほど自身がありました。
35歳で2度目の植物調査を終えました。
来年36歳で家族でエクアドルに移り農業を行います。今まで多くの人の影響と協力を得て生きてきたのだと強く感じています。中でも、娘の笑顔は私に何事にも代え難い幸せでます。
2007年9月27日